ケルン生れでケルン市長も務めたコンラッド・アデナウアー初代・西ドイツ大統領が、ボンを首都にしたとき、ボン市はライン川東岸だけであったが、西岸地域を含めて市は拡張されたという。ドイツ西部の諸都市では、大戦時の空爆により石や漆喰で造られた建物が瓦礫と化したので、戦後に復元・再建された建物が多い。ケルン大聖堂は空襲を免れた。近郊のアウグストゥスブルク城は被害が少なく、修理のうえ迎賓館として用いられた。首都のベルリン移行後、ボンで首都の建物として使用されていたものの多くは種々の博物館に生まれ変わった。歴史博物館が多く、ボンで一泊するドイツ人観光客の団体を毎日見かけた。西ドイツ史を共有してゆく覚悟が感じられた。「ベルリンの自由 Berliner Freiheit」と名付けられた通りもある。中国からの団体客も見かけた。ボンを含めて、ドイツ経済は人手不足ぎみであるという。