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2021-02-22 20:56
(連載2)韓国併合の歴史で考える伊藤博文と盟友井上馨のこと
山田 禎介
国際問題ジャーナリスト
時代は飛ぶが、井上馨は明治政府の外務卿(1879年- 1885年)、第1次伊藤内閣外相(1885年- 1887年)、 農商務相(1888年- 1889年)、第2次伊藤内閣内相(1892年- 1894年)、第3次伊藤内閣蔵相(1898年- 1898年)と、長年伊藤博文の盟友であり、また政治の顧問格を務めていることは、八幡製鉄所高炉完成式の写真からも分かる。また井上馨は外交に尽力したことで知られるが、彼ら明治政府は、国の発展の当時の”帝国主義先進国”を手本にしたようだ。
オスマン帝国(トルコ)海軍のエルトゥールル号遭難事件(1890年)は和歌山の漁民が軍艦乗員を救助した美談だが、これは1887年の日本皇族のオスマン帝国訪問答礼で来た帰国航海での事件。近年、見直しが続くオスマン帝国は、実はイスラム教以外の他宗教に寛容で、1299年から第一次大戦直後の1922年まで6世紀を超えて続いた国家だった。また1892年のオーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント皇太子の日本旅行は、前年(1891年)のロシア皇太子(のちの皇帝ニコライ2世)に続く大行事として受け入れている。
オスマン帝国は治世6世紀の間に統治形態は変貌したが、皇帝が領土を統括、総督が属領を治める。またオーストリア・ハンガリー帝国は、ハプスブルク王家の皇帝がオーストリアを統治、ハンガリー王国の国王は、そのオーストリア皇帝が兼ねる。このいずれもが当時の帝国主義の“先進国”だ。また英国国王がインド帝国皇帝を兼ねる大英帝国は、英国王を元首とする自治領の増大により、英連邦結成という変革を経て、さらに第二次大戦後、インド、パキスタンの独立を代表に、多くの英連邦に属する共和国を生んでいる。
井上馨自身は幕末に蘭医で来日したドイツ人フォン・シーボルトの長男、アレクサンダーと、次男ハインリヒを秘書として外交問題で助力を得ている。とりわけハインリヒは、オーストリア・ハンガリー帝国に国籍を移すほどだった。1893年には日本に駐在したオーストリア・ハンガリー帝国外交官、クーデンホフ(のちクーデンホフカレルギー)伯爵と日本女性、青山みつの婚姻というシンボリックな慶事もあった。日本は欧州帝国主義国家の仲間入りを果たそうとした、ともいえるだろう。
韓国併合に伊藤博文が反対した話に戻るが、確かに伊藤は韓国併合というかたちには反対だった。だが日本の朝鮮半島支配の先駆け、韓国併合につながる初代韓国統監を1905年から1909年まで務めた伊藤博文は、現代歴史の評価では、井上馨ともども帝国主義者と呼ばざるを得ないだろう。だが歴史の皮肉もある。伊藤、井上らが学んだこのユニバーシティ・カレッジに1888年入学、法律を身に着けたのが当時の英領インド帝国の小藩国宰相の息子だったマハトマ・ガンジーだ。だが、ガンジーは凶弾に倒れたものの、インド独立の父という、英国には皮肉な結果をもたらした。(おわり)
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投稿履歴
(連載1)韓国併合の歴史で考える伊藤博文と盟友井上馨のこと
山田 禎介 2021-02-21 10:09
(連載2)韓国併合の歴史で考える伊藤博文と盟友井上馨のこと
山田 禎介 2021-02-22 20:56
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